グッと身近に来る日本史

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鎌倉極楽寺、750年前の「海街diary」(中) 『武士の家訓』の世界②

 極楽寺界隈の持つおだやかさとは正反対に、北条重時の人生は常に人々の争いごとのまっただ中にありました。

 

 鎌倉幕府内での権力闘争、政治的な主導権の奪回を画策する朝廷とのあつれき、全国で頻発する紛争の調停など、武家政権の草創期にあって、重時の周囲では争いごとが絶えなかったのです。

 

  そんな中でも、重時は争いごとをなくすべく尽力していたことがその人生を調べていくと浮かび上がってきます。

 

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 首都圏にこんなにささやかな駅があるのか、とさえ思ってしまう江ノ島電鉄「極楽寺駅」

 

 重時が生まれたのは、建久9年(1198年)。父は鎌倉幕府第2代執権の北条義時、母は源頼朝の乳母だった比企尼を出した比企一族の娘でした。

 

 しかし、重時が生まれた翌年、頼朝が突然、亡くなり、鎌倉幕府内に不穏な空気が流れはじめます。御家人間の権力闘争が始まったのです。

 

 とくに建仁3年(1203年)には、北条氏と比企氏が争って比企氏が粛正されたことから、重時の母は北条家から離縁となり、京の公家のもとに去ります(再婚)。重時はわずか6歳で母親と離ればなれになってしまいました(しかもその3年後に母親は京で亡くなります)。

 

 さらに、建保7年(1219)には源実朝が暗殺されて頼朝の直系の子孫がいなくなり、公家出身の新将軍を京から迎えることになると、今度は朝廷が政治的主導権の奪回を画策しはじめ、承久3年(1221年)に承久の乱が勃発します。

 

  承久の乱とは、後鳥羽上皇が時の幕府執権であり重時の父親である北条義時の追討を掲げて兵を挙げたものの、逆に幕府軍に制圧されたという戦いです。朝廷対武家政権の直接対決であり、しかも武家政権側が勝って上皇らを処分するなど武家政権の優位を完全に確立した事件として日本史上の節目となった大事件でした。

 

 やがて、承久の乱の3年後に父、義時は亡くなり、その長男で重時の異母兄にあたる北条泰時が3代執権となります。

 

 とともに、重時は兄の泰時を補佐する形で政治の表舞台に登場。寛喜2年(1230年)、33歳になった重時は六波羅探題として上洛、ぎくしゃくした朝廷との関係改善や、京都の治安維持、西国での紛争調停(所領争いなど)に当たることになりました。

 

 泰時は貞永元年(1232年)には「御成敗式目」を定め、思いつきではない、法による統治、裁判を推進して乱れきった世の安定に努めていくことになるのですが、重時は六波羅探題として式目を最前線で運用していく役割でした。

 

 重時が六波羅探題の職にあったのは、33歳から50歳までの17年。この間、人々の争いごとの中にあって人間的にかなり揉まれたのだと思います。重時が書き残した家訓「極楽寺殿御消息」(『武士の家訓』より)には次のような、記述が見られます。

 

 

 大勢の人たちといっしょに坐り込んでいる時、茶菓子などが出された場合に、自分もそれを取って食べるように振る舞っても、わざと取りはずしたふりをして、他の者にたくさん取らせるがよい。が、それも人の気付かぬようにしてほしい。

 

 訴訟やその他の煩わしい問題をも、よく聞き届けて処理するようにしたい。(中略)有力なる者にだけ荷担するのは真の賢者ではない。(中略)身分が低くて無力な者に荷担するのも、真の賢者である。誰もそのような賢人を望んでいる。

 

 これらを読むに、重時が単に家柄だけで要職に就いていたわけではないことがわかります。兄の泰時は名執権として現代でも評価の高い人物ですが、兄の政治を前線で支えていた重時も相当の人物であったと推測できます。