グッと身近に来る日本史

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鎌倉極楽寺、750年前の「海街diary」(下) 『武士の家訓』の世界③

 北条重時は宝治元年(1247年)、六波羅探題を辞し、鎌倉に戻って幕府の副執権に相当する連署に就任します。50歳のことでした。

 

 ただこれで「ごくろうさま」といった話ではなく、再び勃発した争いごとを収めるために呼び戻されたというのが、実際のところでした。

 

 この5年前には兄で名執権と言われた北条泰時が亡くなっており、時代は泰時の孫で病弱だった経時(つねとき、4代執権)から、その弟の時頼の代(5代執権)に移ろうとしていました。(泰時の子で経時と時頼の父である時氏は執権職を継ぐことなく、若くして亡くなっています)

 

 この間、北条一族の本家(得宗家という)継承に危うさ見た鎌倉では、再び権力闘争が勃発。北条一族の名越光時(重時の兄の子)や有力御家人の三浦一族などが反北条(得宗家)の姿勢を見せ、時頼は執権就任早々、その反乱を鎮めるべく奔走しなければなりませんでした。

 

  重時が鎌倉に戻った背景には、若き時頼の後見となって、幕府の混乱を収めるといった目的があったのです。

 

 鎌倉に戻った重時はまず、自分の娘を時頼に嫁がせて、北条一族内の結束を固めます。とともに、所領争いなどの調停を迅速かつスムースに行うべく裁判機関の「引付」を創設して御家人からの支持を得られるようにしました。

 

 さらに、建長5年(1253年)には、全国で領地を実際に管理する地頭代に向けて領民との接し方を定めた条例を公布、領民の生活の安定を図っています。

 

 こうした一連の施策により、鎌倉幕府は時頼-重時政権時に最も安定します。(これらの施策は、学術的にはどちらが主導したかは必ずしも明らかではないようですが、個人的には重時が主導したものであるように思います) 

 

 そして。これを見届けるように、康元元年(1256年)、重時は60歳を前にして隠居、鎌倉の中心地から郊外の極楽寺に移ることになります。

 

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 重時が隠居所として選び、人生の最後に行き着いた極楽寺

 

  極楽寺界隈は鎌倉市内とは言いながら、中心市街地からは少し離れた場所にあります。周囲を小山に囲まれて都会の喧噪とは隔絶された穏やかなところで、もう俗世の争いごとからは距離を置きたいという重時の願いが伝わってくるようです。

 

  この穏やかな地で書かれたのが、子供たちのために書かれた100箇条にも及ぶ家訓『極楽寺殿御消息』でした。(現代語訳が『武士の家訓』に掲載されています)

 

 

 

 その中の最後の教えがこれです。

 

 人は、舟に舵があるように、正直の心をもって危い世の中を渡っていくのである (中略) 正直は心の舵ともいうべきもので、かけがえのない尊い宝である。このことは、よくよく心得ていてほしい。正直の心は無欲の心ともいえるであろう。

 

  一読すれば、きれい事過ぎる、あるいは当たり前のような話ですが、人々の争いごとが絶えない中で、それを収めるべく苦心した重時が最後の最後にたどり着いた境地と考えれば、非常に味わい深いものがあります。

 

 このような極楽寺界隈の成り立ちを知れば、映画やテレビドラマの舞台として好まれる理由も、妙に腑に落ちるのです。