グッと身近に来る日本史

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「7条問題」から瓦解し始めた幕藩体制

 幕末に日米修好通商条約交渉の通訳として活躍したヘンリー・ヒュースケンの日記『ヒュースケン日本日記』シリーズの4回目。今回は条約に猛反対した大名たちの具体的な反応について、ヒュースケンの遺した日記から見ていきましょう。

 

 

 ヒュースケンの日記を読んでいると、日本史の教科書で説明されているレベルをはるかに超えて、大名たちが条約調印に反対している実態が見えてきます。争点となった「7条問題」(=7条案をはじめとした外国人の日本国内における通行権問題)が彼らの領国における主権を侵害する恐れがあったためです。これに外様をはじめとする大名たちが反対するのも無理はありません。当然です。

 

 ヒュースケンの日記には、幕府側から次のような説明を受けたと記されています。

 

 大名の領地で、(他の)日本人の立ち入りを許さないところがある。十八大名領のうち、七、八の藩は領主が入国を許さず、かりにも立ち入る者があれば、そくざに首を斬ってしまう。(中略)それらの藩の中には大大名の筆頭である加賀候、第三位の薩摩候の領地がある。(中略)この大名たちは、旅行者がどこでも自由に歩きまわることを許されると知れば、激怒するだろう。

 

  「18大名」とは主に外様の大大名のことを指しています。そして、実際に懸念されたことが起きます。

 

 加賀候はこんどの条約を読んで気も狂わんばかりになり、「こんなことを認めるくらいなら、即刻戦端をひらくほうがよい」といった。

 大君(将軍のこと)がぬかりなく治めているかぎり、大大名も服従する。しかしいまや彼らは「われわれは臣下ではない、同輩である」といっている。

 

 開国に猛烈に反対した藩主と言えば、水戸藩の徳川斉昭が有名です。ヒュースケンは斉昭のことを加賀候と勘違いしているのかなとも思いましたが、彼の同じ日の日記には、別に御三家としての「水戸候」という記述が見られるので、これはそのまま加賀百万石の当時の藩主だった前田慶寧(よしやす)の話と見ていいでしょう。

 

 「即刻戦端を」とはかなり過激な発言です。外様筆頭である加賀藩の藩主が公然と幕府に反旗を翻すような発言をするとは、事態はかなり緊迫していたことが伝わってきます。

 

 また、ここで出てくる「われわれは臣下ではない、同輩である」という言葉は、慶寧をはじめとした外様大名の意識を言い表した言葉だと思いますが、これがまさに「徳川家を盟主とした諸侯連合」だった幕藩体制の本質を的確に示しています。

 

 外様大名の中には、ここに出てくる薩摩藩や、東国の南部藩など、「頼朝公から領国を拝領したのであって、徳川家とは関係ない」と考えているところもあって、彼らは半ば独立国家だったのです。

 

 もちろんこれで、実際に戦が始まったという話ではありませんが、水面下でのせめぎ合いは始まっていたようです。

 

 その点、ヒュースケンの日記には気になる記述があります。

 

 肥後守は京都から堀田の伝言を携えて到着したばかりである。

 彼が言うには、事態はあまりはかばかしく進展していない。大名の反対が非常に強く、その家臣たちが九カ所に立て札をたてた。曰く、「堀田備中守を殺害する」と。

 

 肥後守とは、岩瀬忠震(ただなり)、幕府の外交官です。その彼から京都で朝廷の勅許を得るべく運動していた老中、堀田正睦(備中守)の状況を伝えられました。

 

 注目すべきは「大名の反対が非常に強く、その家臣たちが…」という文言です。ここでは「浪人」ではなく、「家臣」と明記されている点が気になります。

 

 これが単にヒュースケンの誤解で本当は「浪人」だったのか、それとも岩瀬が実際に「家臣」と言ったのか。いずれにせよ、裏で藩の密命を帯びて脱藩した浪人の仕業ととれる説明であり、幕府側がそう見ていた可能性があります。

 

 吉田松陰のように純粋に自らの意志で脱藩、活動していた浪人とは別に、幕末のとくに初期の段階では、藩の密命のもとに動いていた「仮面浪人」も少なからずいたと考えられます。それくらいのことを当時の藩がやってもおかしくないほど彼らの反発はかなりのものでした。 

 

  この相互不信感が次に来る「安政の大獄」へとつながっていくわけですが、すでに幕府と藩との関係は開戦やむなしというほど一触即発の緊迫した状況だったのです。