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「西南戦争」で西郷隆盛の遺刀が選んだ男 『南部維新記』の世界(番外編)

 前回、ご紹介したラストサムライとも言えるような若武者、秋田藩の小野崎三郎道理のその後については、『南部維新記』では、残念ながら触れられていません。

 

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 とはいえ、これだけの人物です。きっと何かあるだろうと思ったので、独自に調べてみました。

 

 そうしたら、やっぱりあるんですね。そこで今回は『南部維新記』から離れて、「番外編」として、その逸話をご紹介します。

 

 小野崎は明治5年、陸軍大尉に任じられて仙台鎮台第9番小隊長、その後は東京で警視庁の操銃教官を務めました。

 

 当時の小野崎はまだ20代の半ば。時代を変えた最新式の西洋銃に魅せられ、自らその扱いを研究していたのでしょう。

 

 そして、明治10年に勃発した西南戦争では、政府軍の征討第4旅団の中隊長として、再び戦場に出ます。ちょうど30歳になった頃です。

 

 西南戦争は、維新の元勲、西郷隆盛を盟主とした鹿児島県を中心とした不平士族の乱で、一時は南九州一帯にまでその勢力が広がりました。

 

 しかし、圧倒的な近代兵器を擁する政府軍に次第に圧倒されていきます。

 

 政府軍の中には、会津をはじめとする東北出身者も多く、戊辰戦争時とは攻守を入れ替えた形になりました。秋田藩出身の小野崎も、途中から官軍になったとはいえ、そのうちのひとりでした。

 

 結局、西郷軍はわずかな手勢で鹿児島市内の城山に立てこもることになります。その最後の総攻撃の現場に、前線の指揮官として小野崎はいました。

 

 もともと警視庁の操銃教官を務めていたくらいですから、彼の部隊も銃の扱いになれていたものと思われます。

 

 いよいよ明日、総攻撃となる9月23日の夜は、両軍とも「この戦争も明日が最後になる」と認識していたようです。

 

 ともにその夜は戦闘を休止、西郷軍は薩摩琵琶を奏で、一方の政府軍は花火をあげたり、軍楽隊が演奏していたと言われています。

 

 前線にいた小野崎も薩摩琵琶の音を聞いて、感慨にふけっていたかもしれません。

 

 明けて、24日未明。政府軍の大砲や銃による総攻撃の前に西郷軍は壊滅状態となり、最後は西郷自身が銃弾に当たって動けなくなったため、側近の別府晋介に「晋どん、もうこの辺でよか」と言って介錯された、というのが、歴史の定説になっています。

 

 朝のうちに戦闘は終わり、戦場ではすぐに検分が行われました。ここで小野崎は西郷の遺品となる愛刀、和泉守兼定を手にすることになります。

 

 刀は持つ人を選ぶ、とも言われます。兼定が西郷の次の主として選んだのが小野崎だったとは、とても偶然とは思えない、何か意志のようなものを感じます。

 

 小野崎がどのような経緯で西郷の兼定を手にしたかの詳細はわかっていません。もしかしたら、前夜、密かに西郷軍に接触して投降を呼びかけた際に手渡されたのかもしれません。

 

 ここまで考えると、もはやドラマの域ですが、小野崎がそれくらいのことをしてもおかしくはない人格を持った人間であったことは確かです。

 

 その後、小野崎は兼定を家宝として大切に保管していましたが、残念ながら、西南戦争の2年後、病死します。33歳の若さでした。

 

 長生きしていれば、日清、日露の戦争では軍の中で要職にあって、活躍したものと思われます。本当に惜しい人物でした。

 

 なお、兼定については、小野崎の死後、西郷家から懇望されて、小野崎家から西郷家に返還され、今日に至っています。

 

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幾多の歴史を見つめてきた鹿児島、桜島(photo by PAKUTASO