グッと身近に来る日本史

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箱館開港で遠征の成功を確信したペリー 『ペリー提督日本遠征記』の世界②

 今回はペリー来航の第2回目、日米和親条約を巡る具体的な交渉の経緯を見ていきましょう。

 

 

 ペリーは再び日本に向かうにあたって、次のような交渉の目標を明確に持っていました。

 

 アメリカ船舶のために少なくともひとつないしそれ以上の日本の港を開かせる

 

 つまり、交渉の成否について、

 

 ゼロ回答=失敗

 単独港開港=最低限の成果

 複数港開港=大成功

 

といったラインを引いていたようです。

 

 ただし、日本側がゼロ回答を提示した場合は、琉球を武力で制圧して、那覇港を無理矢理でも確保するつもりであったことも、本書には記されています。最低限の成果は武力で獲得するつもりだったということです。

 

  さて、1854年(安政元年)3月、横浜に上陸したペリーは日本側と具体的な交渉に入ります。

 

 ここではまず、日本側から長崎を開港する(オランダ、中国と同等の権利を認める)旨が伝えられますが、ペリーはこれを即座に拒否して、こう伝えます。

 

 提督は(日本側、※筆者注)委員たちに、いずれアメリカの船舶のために五つの港が開かれることを期待すると通告した。しかし当分は三港、すなわち一港は日本島内の浦賀か鹿児島、もう一港は蝦夷の松前、三つ目は琉球の那覇港で満足するつもりであると述べた。

 

  5つというのは、後に本当に5港開港が実現しますが、この時点ではペリー流のふっかけだったと思います。琉球の那覇というのも幕府にいきなり要求するのは無理な話として、問題は残りの3港です。

 

 江戸の玄関口にあたる浦賀をあげたのは当然として、松前と鹿児島というのは、地理的、商業的の両面から考えても、いいところを突いてきたなあという印象です。

 

 鹿児島がそのものずばり鹿児島港を指すのか、江戸時代まで栄えた坊津港(現鹿児島県南さつま市)を指すのかは不明ですが、いずれにせよ琉球貿易の拠点となる港であり、日本の南側を抜けて中国へと向かう南回りルートを想定すれば、欲しい港だったはずです。

 

 北の松前も非常に重要な港で、江戸時代に物流の中心だった海上交通上の北の拠点として栄えたところです。また、津軽海峡を抜ける北回りルートを考えれば、ここも確保したかった港だったでしょう。

 

 実際の交渉は、幕府側が浦賀に代えて下田港開港をすぐに承認した一方で、その他の回答は一旦、留保しました。それぞれ、薩摩藩、松前藩と協議の必要があったためです。

 

 しかし、一週間後、ペリーに朗報がもたらされます。幕府が松前に代えて箱館を開港する旨の回答を持ってきたのです。

 

 箱館を承認させたことは、遠征隊の大目的が成功に終わるという良好な見通しを物語るものだった。いまや提督は楽観的な期待をもって、自分の労苦が満足すべき条約の締結となって近いうちに実を結ぶだろうと、予測した。

 

 外交に限らず、あらゆる交渉ごとでは相手との条件の出し合いをする中で、これが出てくれば成功だと確信する場面があるように思います。

 

 日米和親条約を巡る交渉の場合、この箱館開港というカードを幕府が切ってきたことで、複数港開港という目標にめどをつけた米側は態度を軟化、妥結に向かいます。

 

 結局、ペリーは当初、三港開港を掲げながら、ふたつ認めさせたところで手打ちとし、日本側にもある程度の面目を保たせた形で、日米和親条約が結ばれました。ペリー流の交渉術が功を奏したと言えるでしょう。

 

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ペリーは当初、松前開港を要求。幕府が松前に代えて箱館開港を承認したことで、日米和親条約は一気に妥結に向かった(photo by PAKUTASO)